オリンピック・その他競技
2000年のシドニー大会、テコンドーの女子67キロ級で
3位になった岡本依子(よりこ)選手は、
メダリスト会見で縦横無尽の働きをしました。
優勝者は韓国のイ・ソニ、
銀はノルウェーのトルード・グンデルセンでしたが、
会見場に現れた地元の通訳は十分な応対ができず、
混乱していました。
実は、岡本選手は、早稲田大学から
アメリカのオレゴン大学に留学し、
韓国での合宿生活も体験している国際派でした。
そこで彼女は日本語、韓国語、英語を操り、通訳に変身。
会見を無事に終わらせることができました。
大きな拍手が起きたのは当然で、
ここでは堂々の金メダル級のヒロインになったのです。
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ところで、ブートキャンプでお馴染みのビリー・ブランクス。
彼が考案した「TAEBO」とは、
テコンドーとボクシングを合わせた言葉なのです。
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かつて、綱引き、ゴルフ、ラグビーが、
オリンピックの正式種目にあったのです。
綱引きをはじめ、現在の五輪では、
行なわれていない種目は、かなり多いです。
例えば、綱引きは1900年のパリ大会から、
5大会連続で行なわれ、
1920年アントワープ大会が最後でした。
オリンピックで真剣勝負で綱引きやったら、
さぞかし盛り上がるでのしょうね!
微笑ましいかも。
ラグビーも1900年パリ大会、1908年ロンドン大会、
1920年アントワープ大会、1924年パリ大会と、
4大会で行なわれていました。
ゴルフは、1900年のパリ大会と、
1904年のセントルイス大会で行なわれていました。
他に、クリケット、ラクロス、ポロなども、
行なわれていたことがあります。
1908年ロンドン大会では、
1回きりでモーターボートが行なわれたそうです。
かつて、平和の象徴である鳩を撃ち殺す競技が、
五輪史上、一度だけ存在したそうです。
信じられない話です。
平和を象徴するものとして、
開会式には欠かせない鳩ですが、
時代をさかのぼれば、
オリンピックで犠牲になったこともあるとか。
1900年の第2回パリ大会。
“Live Pigeon Shooting”が、
クレー射撃の一種目として実施されました。
ベルギーのレオン・ド・ルンデンという選手が、
21羽を撃ち落として優勝したのです。
しかし、この種目はこの大会限りで消えました。
2007年、自民党総裁選に出馬したことで話題になった
ローゼン閣下こと麻生太郎氏は、
意外と知られてませんが、
1976年モントリオール大会のクレー射撃代表だったのです。
スキート(Skeet)の種目で、
187人中41位の成績を残しています。
狩猟用の猟銃を使って、
猟の練習用にアメリカで考案されたのが、スキート射撃です。
標的放出機を半円の直径部分の直線上に2機設置し、
1個あるいは2個のクレー標的を射撃するスタイルが
1920年頃確立しました。
「スキート」とは古いスカンジナビア語で「撃つ」という意味。
競技の隆盛とともに名前が必要になり、
1926年公募により定められました。
提案者のモンタナ州在住のハールバット夫人は、
100ドルの賞金を獲得しました。
スキート射撃がオリンピック競技のクレー射撃に追加されたのは、
1968年第19回メキシコシティー大会からのことです。
アニメオタクでオリンピック元代表、
祖父が吉田茂元首相。。。
政界にあって、個性ある人物として面白いです。
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馬術で日本唯一の金メダリストは、
硫黄島で戦死しました。
愛馬も1週間後、死んだのです。
1932年第10回ロサンゼルス大会最終日、
日本は馬術競技で、
現在にいたるまで唯一の金メダルを獲得しました。
男爵、西竹一(にし たけいち)騎兵隊・中尉が、
愛馬ウラヌスを駆って、堂々の優勝を果たしました。
ウラヌスは、その2年前にイタリアから買った大型の馬でした。
イタリア人が乗りこなせなかったのを、
西が完全にわがものにしての優勝だったのです。
西は、インタビューに英語で答えて、
「We won!」と発したのです。
愛馬とともに勝ったというこの表現は、
米国民にも深い感銘を与えました。
それから13年、西竹一は、硫黄島で第26戦車連隊長を務め、
1945年3月21日のアメリカ軍の総攻撃に対峙しました。
アメリカ軍は、ロサンゼルスの英雄に
投降を呼びかけましたが、西隊長は玉砕を選んだのです。
42歳でした。
主の戦死を知ってか知らずか、愛馬ウラヌスは、
1週間後の3月28日、東京で死んだのです。
26歳。
死因は、空襲説と老衰説があります。
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ソ連のイワノフ選手は、ソ連が生んだボート界の大スター。
1956年のメルボルン大会、1964年の東京大会と、
男子シングル・スカルで3連覇を果たしています。
1956年メルボルン大会での初優勝に興奮したイワノフは、
金メダルを放り投げたのです。
しかし、その軌跡が悪かった。
手元には戻らず。
会場の湖にポチャン。
あわてて飛び込んだが見つかることはなかったのです。
ションボリしたイワノフに、後日、
IOCは金メダルを贈っています。
その後、1960年東京大会、1964年メキシコシティ大会と、
彼が金メダルを放り投げることはなかったのです。
金メダルを電車の中に置き忘れたレスラーがいます。
1988年、ソウル大会でのレスリング・フリースタイル48キロ級で
優勝した小林孝至(たかし)は、上野駅で降りた電車の中に
金メダルを忘れる事件がありました。
当時、祝勝会や、お世話になった人へのあいさつ回りに、
金メダルを持ち歩くうちに、そのメダルへの注意力が
途切れがちになっていたらしいです。
しかし、後日、メダルは無事、小林選手のもとに戻ったのです。
よかったですね!
差別に抗議するため、
金メダルを川に捨てた最強のボクサーがいます。
1960年、ローマ大会でのボクシング。
ライトヘビー級で金メダルを取ったカシアス・クレイは、
アメリカに帰った後で、川に金メダルを投げ捨てたのです。
アメリカでは、依然根強い人種差別があり、
その抗議だったのです。
「合衆国を一番にするため戦った。
だからソ連、ポーランド選手を破った」
でも、金メダル1個では、
人種差別の壁は突き崩せないことを悟ったのです。
それが捨てた理由です。
4年後、彼はプロボクシングの世界ヘビー級王者となり、
その後、イスラム教に改宗して、モハメド・アリと名乗ります。
“蝶のように舞い、ハチのように刺す”
無敵のボクサーとなりました。
でも、ベトナム戦争での徴兵を拒否。
1967年には、ベルトも剥奪されました。
アリの反論。
「合衆国は、禁固刑か軍隊入りかの選択を迫った。
しかし、もう一つ選択肢があるはずだ。それは正義である」
しかし、彼は禁固5年の実刑判決を受けました。
これは反戦運動の高まりの中で、
無罪に変更されましたが、彼の意志は不動でした。
ベルト剥奪から7年の1974年には、
ジョージフォアマンにKO勝ちして、
再び王者に返り咲いたのです。
衝撃的だったのは、1996年のアトランタ大会。
パーキンソン病のため、腕をふるわせたモハメド・アリが、
聖火の最終点火者として登場したのです。
これには驚きました。
最終点火者モハメド・アリだということと、
パーキンソン病だったという事実です。
難病と戦う人々のためのボランティア活動を
展開していることは知られていますが、
その存在はほとんど知られていなかったのです。
人々の驚きのうちに、サマランチ会長は、
アリに金メダルを与えました。
ローマ大会から実に36年目、
彼は再び金メダルに輝いたのです。




