オリンピック・エピソードとまめ知識
オリンピックの閉会式で、
各国選手が入り乱れて歩くお祭りスタイルは、
実はとても深い理由があります。
開会式では、整然と厳粛のうちに行われます。
しかし、閉会式では、選手、役員、
時にはボランティアの人たちまで入り乱れて、
お祭り騒ぎとなります。
これが最近では当たり前の光景になりました。
閉会式にこのスタイルが採り入れられるようになったのは、
初の南半球開催となった1956年の第16回メルボルン大会からです。
当時ハンガリー動乱などで世情は不穏でした。
そこで地元の少年が、
「世界が一つの国になって入場してほしい」
という手紙を出して、
ノーサイドの精神の大切さを訴えました。
それを具現化させたのが、あの行進スタイルでした。
以後、同様のスタイルが踏襲され、
現在も続いているのです。
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冬季オリンピックの履歴です。
★第19回 ソルトレークシティー大会(アメリカ) 2002年2月8日〜24日
★第18回 長野冬季大会(日本) 1998年2月7日〜22日
★第17回 リレハンメル冬季大会(ノルウェー) 1994年2月12日〜27日
★第16回 アルベールビル冬季大会(フランス) 1992年2月8日〜23日
★第15回 カルガリー冬季大会(カナダ) 1988年2月13日〜28日
★第14回 サラエボ冬季大会(ユーゴスラビア) 1984年2月8日〜19日
★第13回 レークプラシッド冬季大会(アメリカ) 1980年2月13日〜24日
★第12回 インスブルック冬季大会(オーストリア) 1976年2月4日〜15日
★第11回 札幌冬季大会(日本) 1972年2月3日〜13日
★第10回 グルノーブル冬季大会(フランス) 1968年2月6日〜18日
★第9回 インスブルック冬季大会(オーストリア) 1964年1月29日〜2月9日
★第8回 スコーバレー冬季大会(アメリカ) 1960年2月18日〜28日
★第7回 コルチナ・ダンペッツォ冬季大会(イタリア) 1956年1月26日〜2月5日
★第6回 オスロ冬季大会(ノルウェー) 1952年2月14日〜25日
★第5回 サンモリッツ冬季大会(スイス) 1948年1月30日〜2月8日
★第4回 ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会 1936年2月6日〜16日
★第3回 レークプラシッド冬季大会(アメリカ) 1932年2月4日〜13日
★第2回 サン・モリッツ冬季大会(スイス) 1928年2月11日〜19日
★第1回 シャモニー・モンブラン冬季大会(フランス) 1924年1月25日〜2月5日
Torino 2006 Olympic Winter Games Stars of Ice Skating 国際オリンピック委員会オフィシャルDVD トリノ2006オリンピック冬季競技大会 フィギュアスケート
札幌オリンピック
近代オリンピックが復活した時から、
現在までのオリンピックの履歴です。
★第28回 アテネ大会(ギリシャ) 2004年8月13日〜29日
★第27回 シドニー大会(オーストラリア) 2000年9月15日〜10月1日
★第26回 アトランタ大会(アメリカ) 1996年7月19日〜8月4日
★第25回 バルセロナ大会(スペイン) 1992年7月25日〜8月9日
★第24回 ソウル大会(韓国) 1988年9月17日〜10月2日
★第23回 ロサンゼルス大会(アメリカ) 1984年7月28日〜8月12日
★第22回 モスクワ大会(ソビエト) 1980年7月19日〜8月3日
★第21回 モントリオール大会(カナダ) 1976年7月17日〜8月1日
★第20回 ミュンヘン大会(西ドイツ) 1972年8月26日〜9月11日
★第19回 メキシコ大会(メキシコ)
★第18回 東京大会(日本) 1964年10月10日〜24日
★第17回 ローマ大会(イタリア) 1960年8月25日〜9月11日
★第16回 メルボルン大会(オーストラリア) 1956年11月22日〜12月8日
★第15回 ヘルシンキ大会(フィンランド) 1952年7月19日〜8月3日
★第14回 ロンドン大会(イギリス) 1948年7月29日〜8月14日
★第13回 ロンドン大会(イギリス)中止 (第二次世界大戦)
★第12回 東京大会(日本)中止 (日中戦争)
★第11回 ベルリン(ドイツ)大会 1936年8月1日〜16日
★第10回 ロサンゼルス大会(アメリカ) 1932年7月30日〜8月14日
★第9回 アムステルダム大会(オランダ) 1928年5月17日〜8月12日
★第8回 パリ大会(フランス) 1924年5月5日〜7月27日
★第7回 アントワープ大会(ベルギー) 1920年4月20日〜9月12日
★第6回 ベルリン大会(ドイツ)中止 (第一次世界大戦)
★第5回 ストックホルム大会(スウェーデン) 1912年5月5日〜7月22日
★第4回 ロンドン大会(イギリス) 1908年4月27日〜10月31日
★第3回 セントルイス大会(アメリカ) 1904年7月1日〜11月23日
★第2回 パリ大会(フランス) 1900年5月20日〜10月28日
★第1回 アテネ大会(ギリシャ) 1896年4月6日〜15日
オリンピック 栄光の軌跡
東京オリンピック
2004アテネオリンピック ゴールドメダリスト アリーナ・カバエワの新体操教室
オリンピック・ニッポン〜いま甦る オリンピックを熱くした超人たち〜
2000年のシドニー大会、テコンドーの女子67キロ級で
3位になった岡本依子(よりこ)選手は、
メダリスト会見で縦横無尽の働きをしました。
優勝者は韓国のイ・ソニ、
銀はノルウェーのトルード・グンデルセンでしたが、
会見場に現れた地元の通訳は十分な応対ができず、
混乱していました。
実は、岡本選手は、早稲田大学から
アメリカのオレゴン大学に留学し、
韓国での合宿生活も体験している国際派でした。
そこで彼女は日本語、韓国語、英語を操り、通訳に変身。
会見を無事に終わらせることができました。
大きな拍手が起きたのは当然で、
ここでは堂々の金メダル級のヒロインになったのです。
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ところで、ブートキャンプでお馴染みのビリー・ブランクス。
彼が考案した「TAEBO」とは、
テコンドーとボクシングを合わせた言葉なのです。
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五輪史上、競技中に倒れて、
初めて死者が出たんのはマラソンです。
金栗選手が出てリタイヤした第5回ストックホルム大会。
そのマラソンは、40度近い猛暑と石畳の道、砂ぼこりなどで、
過酷なレースとなったのです。
そのため、68人が参加しながら、
ゴールにたどり着いたのは半分の34人だけでした。
優勝は、ケネディ・マッカーサー(南アフリカ)で、
記録は2時間36分54秒8(40.2キロ)でした。
そんな中、ポルトガルのフランシスコ・ラサロが、
熱射病で脱水症となり、病院に運ばれました。
ラサロは翌日、21歳の若さで亡くなったのです。
近代五輪で選手が亡くなったのは、これが初めてでした。
世界で最も遅い五輪マラソンの記録は、
54年と8ヶ月6日、さらに5時間37分20秒3でした。
日本人でした。
日本にとって五輪初参加となった1912年、
第5回ストックホルム大会でのことです。
金栗四三(かなぐりしぞう)は、
マラソンの途中(17〜25キロという説)で、
緊張感と40度近くまで上がった気温のために、
熱射病となり、失神し、落伍(らくご)しました。
倒れた金栗は、近くの農民に救助され、
一夜を過ごした後、宿舎に戻ったのです。
現地では、“消えた日本人”として時の人となりました。
それから55年後の1967年にストックホルム市は、
オリンピック開催55周年記念祭を開き、
“消えた日本人”を招待しました。
当時、76歳だった金栗老人は、
ゴール手前から少し走って見事テープをカット。
場内放送は、
「ここに第5回オリンピックのマラソンは完全に終了しました」
と告げました。
会見で金栗老人は素晴らしいスピーチをしました。
「長い道中でした。途中で孫が5人もできました」
ちなみに、ストックホルム大会で金栗選手が履いていたのは、
コハゼの付いた黒い足袋でした。
いわゆる「金栗足袋」です。
日本では戦後しばらくまで、
駅伝などに足袋を用いる選手は残っていました。
金栗さんは、1983年に92歳で亡くなりました。
実に五輪参加から71年後のことです。
日本が五輪でメダルを最初に取ったのは、
テニスの選手でその色は銀でした。
日本のメダル第1号は銀メダルだったのです。
1920年の第7回アントワープ大会で、
日本人メダル第1号が生まれたのです。
テニスの男子シングルスで熊谷一弥(くまがいいちや)が、
銀メダルを、熊谷と柏尾誠一(かしおせいいち)が組んだ
ダブルスでも銀メダルを獲得しました。
テニスは、次の24年の第8回パリ大会を最後に、
種目から消えたので、話題になる機会も少なかったのです。
デビス・カップやウィンブルドン大会に
重きを置かれていたのが、消えた理由なのです。
復活したのは64年後の1988年ソウル大会からです。
オリンピック大会中に、テロ組織が選手村を急襲し、
17人が亡くなった凄惨な事件がありました。
1972年のミュンヘン大会。
11日目の9月5日早朝に事件は勃発。
「ブラック・セプテンバー」と名乗るパレスチナゲリラが、
選手村のイスラエル選手団宿舎を急襲。
2人の選手を殺し、9人の選手・コーチを人質に取りました。
犯人は、イスラエルに捕らえられている仲間の釈放を要求。
しかし、交渉は不調に終わりました。
結局、ドイツ警察・軍との銃撃戦に発展。
人質はゲリラによって9人とも殺害されました。
反抗グループの5人は射殺されましたが、
警官1人も死亡しました。
翌6日早朝、ブランデージIOC会長は、
大会の続行を宣言。
その日の午前中にメーンスタジアムで追悼式を行い、
午後から競技を開始しました。
ブランデージ会長の宣言は、
“The games must go on”(大会は続行しなければならない)
というものでした。
五輪はテロに屈しない強い姿勢を示したものとして
語り継がれています。
第78回アカデミー賞5部門にノミネートされた
スティーブン・スピルバーグ監督が贈る衝撃の超大作があります。
ミュンヘン スペシャル・エディション
ミュンヘン・オリンピック開催中に起こったテロ事件の
歴史の裏側に隠された真実を暴く、サスペンス大作です。
「今までのスピルバーグ作品で最も力強い、彼の最高傑作!」
など世界のマスコミでも高い評価を得た作品ともいえます。
五輪の名付け親は、新聞記者らしいです。
しかも、宮本武蔵の「五輪書」が
ヒントになっていたのです。
オリンピックのことを五輪と呼んでますが、
この言葉に抵抗を覚える人はいないと思います。
実は、オリンピックを初めて「五輪」と訳したのは、
川本信正という人です。
1936年の第11回ベルリン大会を控えた当時、
読売新聞社運動部の記者だった川本に、
同社の整理部記者(見出し、レイアウトなどの担当)が、
オリンピックを短く表現する言葉はないものかと持ちかけます。
川本記者は、オリンピックの五つの輪を思い浮かべ、
それを、剣豪・宮本武蔵の剣の極意秘伝「五輪書」と
結びつけ、そこから五輪が生まれたという。
でも、この時点から「五輪」が広まったわけではないです。
1936年ベルリン大会の次回1940年大会は、
東京での開催が決まっていましたが、
第二次世界大戦のため、中止となりました。
さらに。1944年ロンドン大会も中止。
1948年の第14回ロンドン大会で、
オリンピックは復活しましたが、
日本とドイツは戦争責任国として招待されなかったのです。
日本が五輪復帰を果たしたのは、
1952年の第15回ヘルシンキ大会でやっと、
「五輪」が人の目に触れるようになったのです。
川本記者は、1932年の第10回ロサンゼルス大会の
陸上100mで6位入賞した吉岡隆徳(たかよし)を
「暁の超特急」と名づけた人でもあります。
戦後は、スポーツ評論家として大活躍し、
1966年6月17日に没しました。
宮本武蔵 タイピング五輪書
五輪書
宮本武蔵のすべて新版




